「大山崎荘絵図」
タカラちゃん:やあ、ホタルちゃん。今日はどうしたの?
ホタルちゃん:やあ。ちょうどよかった。ねぇ、タカラちゃん。
いつも飛んでいて気になってることがあるんだけど。
大山崎町は三川合流の町と言われているよね?どうして?
タカラちゃん:そうだね、桂川、宇治川、木津川、並走する三つの河川が合流して
淀川となるのがこのあたりなんだ。
でも、昔は、上流の淀で三つの河川が合流していたんだよ。
ホタルちゃん:えっ、三川合流の場所が変化するの?
タカラちゃん:うん、江戸時代末期までは、淀で三川が合流していたんだよ。
今の並走する景観は、近代以降の人工的な姿なんだ。
ホタルちゃん:淀川の三川合流の工事だったら、大山崎にも影響が出てきそう。
タカラちゃん:うん。そのため大山崎は、三川合流工事によって大きな影響を受けるんだ。
たとえば小泉川も、合流地点の変更を受けて、付け替えられているんだよ。
ホタルちゃん:小泉川といえば、字大山崎と字円明寺、字下植野の間を流れる川だね。
ヒメボタルの生息地としても知られているよね。
タカラちゃん:小泉川は、歴史的に二度、付け替えられているんだ。第一回目は元禄11年(1698)。
17世紀前半、上流の淀城下町の拡張によって、
木津川が付け替えられた。すると合流地点が200メートルほど
下流となり、水嵩が増え、水勢が支流の小泉川を遡って
洪水を引き起こすことになったんだ。そこで、小泉川と淀川の合流地点を
1300メートルほど下流へもってくることにしたんだ。
ホタルちゃん:たいへんな工事だったんだね。
タカラちゃん:これによって大山崎の水田のなかを、小泉川が縦断することになった。
「大山崎荘絵図」(図1)を見ると、中央の右手から左手へ
水色で塗られた川が流れている。これが小泉川だよ。
川の両側の黒線は堤防。堤防ができると周囲の田畑の
水はけが悪くなり、水が溜まるようになったんだ。
昔、鏡田池があったことは知られているけど、
これも小泉川の付け替え以降に大きくなったようなんだ。
図中央の水色部分で示されている「永荒沼」とあるのが鏡田池だよ。
これが江戸時代中後期の景観だったんだ。
ホタルちゃん:図を見ていると、左の方に紙を書き足したみたいだね。
タカラちゃん:そう。これは大山崎の鏡田池の排水路を左手の下流へ延長したので、
地図の範囲を越えて、紙を付け足したんだ。
排水路は今の高浜(島本町)あたりまで延びているでしょ。
淀川増水時の逆流を心配して、少しでも下流で、排水路を淀川に
流したかったんだ。
ホタルちゃん:じゃ、第二回目の工事はいつ?
タカラちゃん:明治3年(1870)、再度、木津川の付け替え工事が行われたんだ。
木津川の合流地点が2000メートル下流に移ってね。
すると、小泉川を下流へ流す意味がなくなったんだよ。
そこで、再び円明寺村の敷地内で淀川と合流させることにしたんだ。
この付け替えによって、小泉川の流れは現代に至ってる。
ホタルちゃん:「大山崎荘絵図」にも、右下のあたりに付け替えが書き足しているね。
何だか、第一回目の元禄11年付け替え以前に戻ったみたい。
タカラちゃん:それが、ちょっと違うんだ。明治4年の「小泉川河口絵図」(図2)を
見てみると、微妙に場所がずれていない?元禄11年以前に流れていた
「古川」という敷地があるけど、そのわずか50メートルほど上流に、
新しい堤防が描かれているでしょ。つまり元禄11年以前の小泉川と、
明治3年以降の小泉川は、わずかだけど微妙に上流に移っているんだ。
こうした細かい情報も、古地図が残っていたから、わかるんだね。
今で言えば、桂川河川敷公園のあたりだね。
この小泉川の付け替えは当時の大山崎荘、円明寺村、
下植野村の庄屋、年寄(庄屋を補佐する役職)が
話し合って取り決めていたよ。
ホタルちゃん:淀川の三川工事によって大山崎は翻弄されたみたいけれど、
話し合っていた三つの大字、大山崎、円明寺、下植野がそのまま、
今の大山崎町を形成しているんだね。
ところで、江戸時代の小泉川の跡地はどうなったの?
タカラちゃん:堤防は壊されて、土砂は鏡田池の埋め立てに使われるんだ。
この話は小学校で使われる地域の副教材にも話が出てくるよね。
ホタルちゃん:勉強になるなぁ。これからもいろんなこと教えてね。
タカラちゃん:そうだね。でも、ホタルちゃんが詳しいことも教えてね。
ホタルちゃん:うん、もちろん。それじゃ、またね。
更新日:2020年10月12日