秀吉の「天下への道」はここからはじまった

秀吉と利休

秀吉と利休

山崎の合戦で光秀を破った羽柴(豊臣)秀吉には、織田信長に代わる「次の天下人」との期待が集まり、織田家の家臣の大多数も、秀吉の命令に服するようになった。

これに対して柴田勝家は、滝川一益らと組んで信長の三男の神戸信孝を担ぎ、秀吉の天下取りを阻もうとした。
しかし、丹羽長秀や池田恒興らと結んで次男の北畠信雄を取り込んだ秀吉の優位は揺るがず、翌天正11年(1583年)4月の賤ケ岳(滋賀県)の合戦は、秀吉の圧勝に終わった。
柴田勝家らの勝利した秀吉は、天下統一の象徴として、大坂の地に巨城を築いた。
天正11年に着工したこの城は、天下の政治を行う天下城、つまり首都機能の所在地だった。
秀吉は城の縄張りを黒田官兵衛孝高に、襖絵を狩野永徳一門に、接遇演出は茶頭の千宗易(利休)に委ねた。
信長は美意識の面でも独裁者だったが、秀吉は専門家の意見を尊重した。

秀吉は、過激な改革を目指した信長とは異なり、有力大名には元からの領地を残しつつ自分の政権に編入する方針を採り、毛利輝元や上杉景勝らとも和睦して天下統一を急いだ。
信長が絶対王制を目指したのに対して、秀吉は中央集権と地方分権を組み合わせた封建社会を築こうとしたのである。
やがて朝廷から豊臣と姓を頂いた秀吉は、関白、太政大臣になり、天正18年(1590年)の小田原の役によって天下統一を完成する。

秀吉は、政治的に天下を支配しただけではなく、経済の面でも大坂を中心とした物資と金銭の流通を把握した。
文化の面でも茶道や囲碁将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせた。
これらは徳川幕府に引き継がれ、日本独特の「型の文化」を創り出すことになる。

秀吉のきらびやかな天下。
それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。
 

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更新日:2017年03月23日