秀吉の中国大返し
勝負を決めた判断と行動
天正10年6月2日(新暦1582年7月1日)未明、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃、近くの二条城に居た長男の信忠と共に討ち果たした。
その頃、織田家の有力武将は、遠く離れたそれぞれの持場で強力な敵と相対していた。羽柴(豊臣)秀吉は、はるか西の備中(岡山県)にいた。
秀吉は雑用人として織田信長に仕えて以来20数年、機転と勇気で様々な手柄をたてて出世。5年前に強敵毛利家と戦う中国攻めの総大将に任じられてからは、才気とねばりで大きな戦果を挙げた。 天正10年5月、秀吉は、いよいよ毛利家に止めを刺すべく山陽の要衝、備中高松城を攻め、水攻めの奇策によって陥落寸前にまで追い詰めた。毛利方も高松城を見殺しにできず、全力を挙げて救援にきた。それを知った信長は、自ら出陣、一気に毛利勢を撃滅することにした。秀吉は、主君信長の天下統一が間もなく完成すると信じていた。
ところが、6月3日の夜、その信長が京都本能寺において明智光秀に殺害されたことを知らされた。光秀の使者が闇夜で道を誤り、毛利方に届ける書状を持って秀吉の陣に迷い込んだのだ。 秀吉は主君の死を悼んで大声を上げて泣いた。だが、すぐ次には直ちに上方に駆け戻り明智光秀と天下を駆けて戦うことを決断、夜明けまでに毛利方との和睦を成り立たせた。
翌5日を和睦の儀式や兵糧の撤収に費やした秀吉は、6月6日、中国街道を駆けぬけ、2日後には約70キロ東の姫路城に戻った。世に言う「秀吉の中国大返し」である。
季節は梅雨時、雨が降り続いて行軍は難渋したが、秀吉軍は姫路で軍備の点検に一日を費やしただけで東に進み、6月10日には早くも摂津の尼崎に到着した。
羽柴秀吉が瞬時にして下した的確な判断と迅速な行動、それによって天下争覇の勝負は決した、といえるだろう。
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更新日:2017年03月23日